一家に1枚「ウイルス」

人類との関わりの歴史

豆まき・大仏 〜疫病退散を願って〜

日本古代における天然痘流行

疫病は古くから発生してきました。日本古代においても、735年(天平7年)・737年(天平9年)に「豌豆瘡(裳瘡)」と呼ばれる疫病が流行し、その後の国家政策にも大きな影響を与えたという記録が続日本紀に残されています。「豌豆瘡」は天然痘のことだと考証されています。豌豆瘡は、760年(天平宝字4年)・790年(延暦9年)にも流行したと記録されており、おおよそ30年周期で天然痘が流行していたと推定されています。

疫病流行と大仏

上述の疫病流行をはじめ、災害、政変、反乱といった社会不安が相次ぐ中、聖武天皇は741年(天平13年)に国分寺創建の詔(みことのり)を発し、全国に国分寺の創建を推進、大仏造立を発願するなどして、社会不安を解消しようとしました。

疫病流行と大仏:画像

疫病退散と豆まき

日本では古来、旧暦の大晦日(現在の節分)に追儺(ついな・おにやらい)と呼ばれる行事を行ってきました。追儺は中国から伝わった行事で、日本では706年(慶雲3年)に行われたのが最も古い記録とされています。追儺では、疫病を表す鬼に扮した舎人(とねり)を、方相氏(ほうそうし; 悪鬼を追い払う人物)に扮した大舎人長が追い払います。追儺に「豆」が登場するのは室町時代からとされています。穀物には神の力・魔除けの力が宿っているとされ、また、「まめ」は「魔滅」という字を当てることができることから縁起の良いものと考えられてきました。節分の豆まきの起源は追儺と考えられています。

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