メタボローム研究チーム
研究紹介
0. 概要
1. 脂肪酸クオリティによる炎症・免疫の制御
2. リピドームアトラスの創出と脂質多様性の生物学
3. 共生微生物と宿主との代謝相互作業
脂質は生体膜を構成し,エネルギー源としての役割に加え,シグナル分子やその前駆体など多彩な役割を担う生体分子です。よって生体内の脂質多様性やその局在、代謝ネットワークを捉えることは,その生物学的意義を理解する上で極めて重要です。また、脂質代謝異常が多くの疾患の背景因子であり、また多様な脂質分子の中には多くの生理活性物質が含まれていることから、新たな創薬シーズの発見や、早期診断・治療などの医学応用につながる可能性が十分にあります。当研究室では、生命の脂質多様性(リポクオリティ)を網羅的に捉える最先端のリピドミクス技術基盤を構築し、生体内で脂質多様性やその局在を創り出し、調節・認識するしくみの解明、およびその破綻による疾患解明を目指しています。さらに、リピドームアトラスの構築から、生体内で脂質多様性や空間場がいかに作り出され、その局在や代謝バランスがいかに調節されているのかを時空間システムとして捉えることで、脂質多様性の制御が司る様々な生命現象(脳神経系・発生・炎症・免疫・老化・癌・共生細菌など)の理解に向けた研究を推進しています。
新しい物質の発見および物質の相互作用の解明は、これまでのサイエンスの歴史を振り返ってみても、メカニズム不明であった生命現象や病態に対して根本的な解を与え、新しい科学分野の形成・発展の土台になってきました。様々な生命現象に関与する脂質分子やその多様性の意義を、ノンターゲットかつ精度・深度の高いオリジナル技術で見出すことにより、今後さらに幅広い生命科学分野への波及効果、および科学的エビデンスに基づく医学・健康長寿社会への貢献が期待されます。
生体内には多くの種類の脂肪酸が存在しており、その質の違いや代謝バランスの変化は健康や疾患と密接な関係にあります。当研究室では、生体内に微量に存在する脂肪酸メディエーターを包括的かつ定量的に捉えるためのターゲットリピドミクス解析系(mediator lipidomics)を構築し、炎症・代謝疾患の制御において脂肪酸メディエーターバランスが重要であることを示してきました。中でも、エイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)などω3脂肪酸が体内で脂肪酸オキシゲナーゼ(シクロオキシゲナーゼ (COX)、リポキシゲナーゼ (LOX)、シトクロムP450 (CYP)、など)により活性代謝物に変換され、生体調節機能を発揮することを見出してきました。これら内因性の炎症制御性物質をメタボローム解析により包括的に捉え、その生成機構や作用機構を分子レベルで明らかにすることで、炎症を基盤病態とする様々な疾患の病態解明および新しい治療法の開発につながることが期待されます。
1 - 1. ω3脂肪酸代謝と抗炎症作用
エイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)などのω3脂肪酸には、抗炎症作用や心血管保護作用があることが知られています。ω3脂肪酸は、ω6系であるアラキドン酸から生成する起炎性メディエーター(プロスタグランジンやロイコトリエン)の生成と作用に対して拮抗することで炎症を抑制すると考えられてきましたが、新たにEPAやDHAから生成する抗炎症性代謝物が見いだされ、その生理機能が注目されています。このような背景のもと、私たちはアラキドン酸、EPA、DHA由来の代謝物を包括的に捉える目的で、LC-MS/MSを用いたターゲット解析システムを確立しました。また、哺乳類は本来持たない機能であるω3脂肪酸合成能を持たせるため、線虫由来のω3脂肪酸合成酵素(Fat-1)を遺伝子導入したトランスジェニックマウス (Fat-1 Tgマウス)を用いています。このFat-1 Tgマウスは、炎症性疾患やがんに対して強い抵抗性を示し、これまで栄養学的な解析しかなされてこなかったω3脂肪酸の生理機能に対して遺伝学的な根拠を与え、かつ細胞・分子レベルでの解析が可能になりました。これらの研究を通して、これまでに栄養学的に広く認知されていたω3脂肪酸の疾病予防効果について、特定の細胞や臓器から生成する内因性の抗炎症性代謝物が関与することが明らかになってきました。
例えば、心不全(心筋組織の線維化)を抑制する活性代謝物として同定した18-HEPEは、EPA由来の抗炎症性代謝物であるレゾルビンEシリーズの代謝前駆体でもあります。また、ω3位のエポキシ化により生成する17,18-EpETEには抗アレルギー作用が認められ、さらに12-OH-17,18-EpETEなど17,18-EpETEを起点とする一連の活性代謝物を見出しました。これらはω3位の二重結合が修飾される、いわばω3脂肪酸に固有の代謝経路であり、我々はこれを「ω3脂肪酸カスケード」と命名しました。現在、ω3脂肪酸カスケードを制御するボトルネック酵素の包括的解析を進めています。
また、特定の臓器(網膜、神経組織、精巣など)では、ω3脂肪酸、とくにDHAを含有する脂質が他の臓器に比べて多く存在しています。我々は、DHAなど長鎖多価不飽和脂肪酸の臓器選択的な分布を制御する機構の一端を明らかにしました。すなわち、脂肪酸の「質」の違いに着目することで、多彩な脂肪酸代謝ネットワークによる生体制御およびその制御破綻による疾患メカニズムについて、その因果関係を分子レベルで明らかにしてきました。
1 - 2. 炎症・アレルギーの制御に関わる脂肪酸代謝系
炎症反応は外傷や感染に対する重要な生体防御系です。一方、炎症の遷延化および慢性化の分子機構の一つとして、炎症の収束機構の障害の可能性が示唆されています。すなわち生体の恒常性維持において、一旦誘発された炎症は適切に収束する必要があり、この制御が破綻すると慢性炎症へと発展してしまうことがあります。私たちは、炎症の収束に関わる細胞やメディエーターを網羅的に特定し、生体が本来兼ね備えている能動的な炎症収束能力について分子レベルで明らかにすることを目指しています。その結果、能動的な炎症収束に関わる好酸球やマクロファージの機能が、12/15-LOXによる脂肪酸代謝系によって制御されている可能性が明らかになってきました。本研究で見いだされた内在性の炎症収束因子を、「治らない炎症」を基盤病態とする慢性疾患に適用し、病態解明およびこれまでにない新しい治療戦略としての応用を目指しています。
その他、12/15-LOXがインフルエンザウイルス感染症の重症化を防ぐ事、角膜の創傷治癒を促進する事、腸炎や喘息・アレルギーの症状を制御する事、などが明らかになっています。また、腸内細菌の代謝酵素によって生成する一連の脂肪酸代謝物に抗炎症作用や代謝改善効果を認めています。さらに、ヒト重症喘息や好酸球性副鼻腔炎の患者由来の好酸球において、12/15-LOXのヒトオルソログである15-LOXの大幅な発現低下や、ロイコトリエンD4産生に関わる酵素GGT5の大幅な発現亢進など、顕著な脂肪酸代謝異常が起こっていることを見出しました。このようなヒトのアレルギー病態で認められる特殊な好酸球サブセットと病態進行との因果関係や、予防・治療標的としての可能性が注目されています。これら一連の研究を通して、脂肪酸代謝ネットワークの調節および最適化による疾患制御の概念実証、未知の生理活性をもつ新規代謝物の同定、および治療標的となりうる機能作用点の特定を目指しています。
1 - 3. 組織の脂肪酸クオリティ管理機構
脳神経組織、網膜、精巣など特定の臓器には、DHAなど長鎖多価不飽和脂肪酸(LC-PUFA)を含有する脂質が他の臓器に比べて多く存在しています。我々は、長鎖アシルCoA合成酵素(ACSL6)欠損マウスを用いた研究から、脳神経機能や網膜光受容、精子形成などを最適化する膜環境(脂質場)の構築において、DHAなどLC-PUFAを含有する脂質クオリティの重要性を見出しています。DHAを含有する脂質と膜タンパク質との相互作用や質量分析イメージングによる局在解析などを通して、なぜDHAなど特定の脂肪酸が生体機能の最適化に必要なのかを明らかにしたいと思っています。
2 - 1. ノンターゲットリピドミクスの技術開発と応用
生体内に存在する脂質分子の種類は10万種を超えると推定されており、こうした脂質の構造多様性からさまざまな生理機能が生み出されます。脂質はその特性として、単独の分子が生理活性を有するものと、分子集合体として「場」の制御に関わるものがあり、さらにその分子種や修飾の多様性から未知の機能が発見される可能性が高いと考えられています。リポクオリティの変化がもたらす様々な表現型について、そのメカニズムを明らかにする上で欠かせないのが、脂質の構造多様性をより広範囲に捉え、かつ明確に識別することができる最先端のリピドミクス解析技術です。すなわち、特定の分子種を選択的かつ定量的に計測するターゲット解析に加え、分子種を特定しないノンターゲット解析を組み合わせることで、探索範囲の飛躍的な拡大および解析データの質の向上が得られます。
当研究室では、ヒトおよびマウスの臓器・組織・細胞、腸内細菌叢などの脂質成分を網羅的に捉えるため、実測データに基づくマススペクトルライブラリーの構築および質量分析インフォマティクスを用いることで、約8,000種の脂質多様性をノンバイアスに捉えることに成功しました。また、マススペクトルネットワーク解析法を適用し、未知の脂質分子の構造推定や表現型と相関する代謝物群の抽出を可能にしました。このように高網羅的・未知分子探索型のノンターゲット解析技術の開発により、これまでに知られていない脂質の生体調節機能や生理活性分子の同定につながり、メカニズム不明であった生命現象や病態に対して根本的な解を与えることに貢献しています。
2 - 2. 質量分析イメージングと空間マルチオミクス解析
生体内で脂質多様性がいかに作り出され、その局在や代謝バランスがいかに調節されているのかを理解するためには、それぞれの脂質分子種の生合成・分解に関わる酵素を特定し、それらの転写制御および翻訳後修飾などによる多階層の機能制御機構を明らかにする必要があります。ERATOプロジェクトでは、脂質分子の時空間ダイナミクスを解明するために、ノンターゲットリピドミクスから構造が特定された脂質の組織・細胞レベルでの分布や局在を高感度、高解像度で可視化するための質量分析イメージングの技術開発を行っています。さらに、空間リピドミクスデータと空間トランスクリプトームデータの相関解析法(CLASH法)の開発、および脂質多様性の分布や制御に関わる代謝酵素の活性化度や脂質修飾タンパク質を包括的に捉えるためのケミカルプロテオミクスを組み合わせることから、生命の脂質多様性および分布・局在・脂質修飾を総体として捉える「リピドームアトラス」を構築し、脂質多様性の空間分布を決める代謝制御機構や、脂質の空間パターンの生理学的重要性の解明を目指しています。
2 - 3. 脂質関連タンパク質のケミカルバイオロジー
生体内の脂質多様性は、その場に存在する様々な脂質代謝酵素の活性により作り出されます。脂質代謝酵素は、リン酸化などの翻訳後修飾や補因子の結合等により活性化するケースもあるため、脂質多様性を作り出し調節する仕組みを解明するためには、脂質代謝酵素の発現量に加え活性化度を捉えることが重要です。近年、酵素の活性中心をはじめタンパク質中において反応性の高いアミノ酸に結合するケミカルプローブ(activity-based probe)を用い、プローブ結合タンパク質をプロテオームワイドに同定する手法(activity-based protein profiling: ABPP)が開発され、酵素”活性”を指標にタンパク質を検出・同定する新しいケミカルバイオロジーの方法論として注目されています。当研究室ではABPPを活用し、組織の局所において特徴的な脂質環境を調節する酵素の探索や、これまでに全く知られていない新しい脂質代謝制御機構の発見を目指しています。
また、パルミトイル化やイソプレニル化に代表されるタンパク質の脂質修飾は、タンパク質の膜ドメインとの相互作用やタンパク質間相互作用など、標的タンパク質の構造や機能発現の最適化に寄与する非常に重要な翻訳後修飾として知られています。一方脂質修飾タンパク質は、その特殊な物性や存在量の少なさ等から解析が難しく、未だ発見されていない多くの脂質修飾が眠っているものと考えられています。当研究室では、分子量の非常に小さいアルキンの「タグ」が付いた脂質をケミカルプローブとして用い、クリックケミストリーを利用して細胞内における脂質修飾タンパク質を網羅的に検出・同定することに成功しました。脂質アルキンプローブを活用することで、これまでに全く予想されなかった脂質修飾の発見や、その生理的意義の解明が期待されます。
腸内細菌は独自の代謝系を持ち、その構造の特殊性と多様性、および食環境や宿主との相互作用など、腸内細菌叢が作り出す複雑な代謝ネットワークの多くは未解明です。一方で、腸内細菌叢のバランス異常(dysbiosis)が炎症性腸疾患や大腸がん、メタボリックシンドローム、アレルギー等の様々な疾病と密接に関係すると言われており、新たな治療介入標的として注目されています。腸内細菌は代謝物を介して宿主と相互作用することが知られていますが、特に脂溶性代謝物の構造と機能は不明な点が多く存在します。当研究室では最先端の質量分析技術を用いて、腸内細菌の産生する脂質代謝物の構造を解明し、さらにそれらは腸管内だけでなく宿主の組織にも移行することを明らかにしました。また、未知代謝物を含めた網羅的な解析が可能なノンターゲット質量分析法と、未知分子の構造推定を支援するMolecular spectrum networking技術を組み合わせることで、代謝物と菌叢との相関関係を明らかにすることに加え、新しい機能性代謝物の発見を目指しています。構造が明らかになった代謝物がどのような細菌や合成経路を介して産生されるのかを解明し、さらに代謝物がどのような空間分布で産生され、どのように宿主に働きかけるのかを明らかにします。